誰もいなくなった近代都市の映像を初めて見たのは東ドイツのカメラクルーが隠し撮りしたポルポト政権時代のカンボジアの首都プノンペンの映像だった気がします。人の住んでいない都市は、人間の死体のように見えました。そこには都市の意志のようなものがありませんでした。そういう意味で都市の意志というのはそこにいる人がつくりだすものだとその時気付きました。都市の意志というのがそこにいる人の意志を反映したものであるならば、都市にいるあなたの意志はそのまま都市の意志として反映されます。たとえば日本の写真に写っているほとんどの建物がビジネスのために存在しています。それは戦争で荒れ地になったあと経済活動に特化した都市を作ろうという人の意志があったからです。
・・・(中略)・・・
日本の都市は何か手に入らないものを手に入れる場所なので、何でも手に入れられる気になります。でもそれは幻想です。オランダの都市は、昔から変わらない街並みの中にいると、変わらない日常が続く気になります。でもそれも幻想です。どちらも幻想ですが、みんながその幻想を見ているので、実感としてその幻想に気づきません。日本人の中にいると自分を日本人だと気づかないように、人はどこかに移り住むとはじめてそれが幻想であったことに気づきます。
・・・(中略)・・・
よく知っている場を知らない場として、よく知らない場を生まれた場のように、よく見てよく聞けばなにが幻想かを感じることができます。そしてなにか感じたら、きっとなにかが分かります。なにかが分かるということはあなたの中のなにかが変わるということです。いつもと同じ場所に立って見ても、そこからは何も見えません。
小野博 あそこからでは何も見えない
旅行中、何度も読み返した文章です。
いつもと同じ場所に立って見ても、そこからは何も見えません。
いつもと同じ場所に立って見ても、そこからは何も見えません。
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