2012年10月28日日曜日

秋の夜長に


秋まっただ中。
読書、編み物、お出かけ。お手紙。
食べ物はおいしいし、おもてはすがすがしいし、葉っぱはどんどん色づくし。



先日、桂離宮に行ってきました。
ここは学生のときからずっと行きたかったところで、でもなかなか行けず
(予約が必要で、ネットからも予約できるけれどほとんどずっと満席状態)、
今回、やっと。
(京都御所の事務局で予約ができます。私はキャンセルで1人分空いていたところに入れてもらいました。)



すばらしいです。(すばらしさの分かる写真ではありませんが・・・)
贅を尽くした、という感じ。
こんなに贅沢な空間が作られたというそのことに、ただ溜め息。



これからしばらくは、お手紙をたくさん書こうと思います。
落ち着いて、しんとした中でものごとを考える時間をもっとしっかり持とうと思います。

2012年10月25日木曜日

食べ物の記録

本日は、ウズベキスタンで食べたものの記録。



こちらは、ブハラの市場の食堂。
なんとなんと、生ビール屋を見つけてしまったのです。
イスラムの国で。白昼堂々、生ビール。(ビール屋、とても賑わっていた)

この日は体調を崩していて風邪薬を飲んでいたけれど、ビールの誘惑に耐えきれず(だってものすごく暑かった、40度は越えていたと思う)、お昼に飲んだらくらくらして、ふらふらしながら宿に帰り、そのままばたんと眠ってしまいました。
風邪薬を飲んだ日にビールを飲んではいけないらしい、ということがなんとなく分かった一日。
私のお小遣い帳によると、プロフ(ピラフみたいなごはん)とサラダで4200ソム(約150円)、ビール1200ソム(約40円)。

ウズベキスタンはイスラム教の国だけれどそんなに厳しいところではなく、
ラマダン中も食事をとる人をちらほら頻繁に見かけたし、お酒は簡単に手に入るし、
肌を出す服装の女性もたくさんいたし。
私もイスラム服(?)と頭に巻くスカーフを持って行ったけれど、ほとんど使うことなく。








ラグマン、という食べ物の噂はずっと昔から聞いていました。
ラグマンはうまい、とか、とりあえずラグマン、とかそんな話。
何と言っても、「ラグマン」(もしくは「ラグメン」)という名前が強烈で、どんな食べ物なんだろう、一度お目にかかりたいとずっと思っていました。
その念願のラグマンは中央アジアどこにでもありました。
一言で言うと、「トマト羊うどん」です。
あなどるなかれ、おいしいのですよ。麺は大体どこも手打ち麺。
出会ったひとと、ラグマン屋を日本で開くのはどうか、と真面目に話し合ったほど日本人に馴染む味だと思うし、困った時はラグマンを食べていました。
困ったときのお助けごはん、ラグマン。サンキューラグマン。



そして、クッキー。
私が旅した中で、ウズベキスタンは「クッキーのかわいい国ナンバーワン」です。
(ちなみに、ビスケットのレベルが高い国ナンバーワンはインドだと思ってます。)
クッキーがとにかく可愛くて、どこでもずらっとグラム売りでした。
(個包装のはトルコやどこかから輸入されてきたもののみで、ほとんど見ませんでした)
クッキーがおいしいかどうか、ということに関しては、ふつう、ですけれど。



2012年10月19日金曜日

たった2日のキルギスタン

キルギス滞在はたったの2泊。
しかも首都ビシュケクにも寄らず、オシュという街に2泊。
市場に行ったり、その後の旅の計画を立てたり、出会った人たちとおしゃべりしたりお酒飲んだり中華を食べに行ったり。

ちっともキルギスタンという国に馴染まなかったし、よくわからないまま出てきてしまったけれど、バザールはとても楽しかったです。
ここにも、当然なのだけれど、日常があるのだなぁ、と。




帰ってきた今更ながら思いますが、もうちょっと、キルギスタンにじっくりいてもよかったなぁ、と。
キルギスなんて国、そうそう再び行かないでしょうし。
飛行機の乗り換えでキルギスに降り立つこともないでしょうし、アクセスも悪いし。
私にとって、なんだか馴染まない、どこか馴染めないところでもあった印象の国です。
市場は素敵だったし、スイカもメロンもものすごーーーくおいしかったのですけれどね。


キルギスへの道

さて。
中国のカシュガルを出て、向かった先はキルギスタンのオシュという街。

カシュガルからキルギスへの国境越えは、今まで越えたどの陸路国境よりも面倒で、タフで、ハードで、ちょっと2度目はごめんだね、という国境だったのですが、そんなことをうだうだ書いてもこの国境を通る人しかおもしろくないので、手短に。

この国境を越えるには週2便国際バスも出ていて(確か600元前後だったような?)それに乗って行く方法と、シェアタクシーやらヒッチやらで乗り継いで行く方法(ヒマで物好きで勇気と元気があって冒険好きでお金のない旅行者の方法、うまくいけばバスより早くて安い)があります。

私は当初国際バスで行くつもりでしたが(だって一人でヒッチなんて怖くてできない)、カシュガルで会った大学生の男の子に誘われ、一緒にローカルを乗り継いで行くことになりました。

とりあえず先に結果のみ、旅行者の方への情報として。
かかった時間はカシュガルのバスターミナルからオシュの街まで約35時間、費用は約3500円(途中で1泊することとなったのでその宿代も含めて)。
国際バスだと約24時間、600元(8000円ぐらい)。
人によっては50〜60時間、100元(1300円〜1400円)。
運によってかかる時間も費用もばらばらなので、何とも言えませんが。



中国側の国境の街。ウチャ(ウルグチャット)という街外れのイミグレーション。
ここまでは何の問題もなく。ふんふんと歌でも歌っていれば楽に着きます。
イミグレの係員がヒマそうで、持ち物全て、カメラのデータも全てチェックされますが、そのぐらい、この後のことを考えれば何のそのです。


キルギス国境まで乗せていってくれたトラック。
イミグレ越えたから、さて、国境、さよなら中国!と思いきや。
ちっともちーーーっとも国境がないのです。
ここの国境は山脈なので、山を越えねばなりません。
イミグレを通ってから、7時間経っても8時間経ってもほんとうの国境に着かないのです。
そしてほんとうの国境に着いたころには、国境閉鎖(つまりは係員が働く時間じゃないってこと)、公務員の働く時間しか国境は開いてません。もちろん土日も閉まってる。
仕方ないので国境のまちで一泊。まち、ではないです。村、とも言えない。集落、というか。そんなところ。水はなんとかあったけれど、水道はない。


こーんな道が永遠と。景色は素晴らしいのですよ、本当に。
山の稜線はびっくりする程美しくて、溜め息が出る程なのですが。


キルギスに翌朝入国しても面倒なこと続きで、旅の道連れも私も、ほとほと疲れてオシュ到着でした。(しかもこのとき道連れはおなかを壊していた。)

行ってみないとわからないことがある、やってみないとわからないことがある。
それはよく分かっていて、一度やって、ここの国境越えはほんとうにもういいや、と思います。

ここをローカルの乗り継ぎで行く方々、覚悟して行くことをおすすめします。
(これ読んでくださってる方のうち、中国キルギス間を陸路で抜ける計画を立ててる人がどのくらいいるかは不明ですが)
私たちは、「その日のうちにオシュまで着ければいいね」ぐらいの軽い覚悟しかなかったのです。甘かった。

それでも、景色は素晴らしいですし、大変なことばかりでもないです、きっと。

2012年10月16日火曜日

ひさびさに旅に出た

8月に、ちょっと旅に出てきました。
行き先は、中国のカシュガルからキルギスタンを通ってウズベキスタン。

カシュガルは、あの広い広い中国の端っこの街。
ウイグル人がたくさんいて、中国の中のイスラム圏。
ずっと前から行ってみたいと思っていたところです。




安いエアチケットだったので(というかもともとカシュガルに行くには乗り換えが悪い)、中国の青島で乗り換え、北京で空港泊(空港のベンチに泊まるような旅はするつもりではなかったのに・・・)、それから翌朝ウイグルの州都であるウルムチへ。
ウルムチ行きのフライトが遅れたため、ウルムチからカシュガル間のフライトの乗り継ぎに間に合わず、空港のカウンターの人波にもまれつつもなんとかフライトを振り替えてもらい。
到着まで一苦労、二苦労、やっとカシュガルに到着しました。
遠かった。こんなに遠いのね・・・としみじみ思いました。
イスタンブールとか、カイロとか、距離は遠くてもカシュガルよりずっと近いです。

看板には中国語もウイグル語(読めないけれど、あのアラビア文字)も書いてあって、
モスクがあって、アザーンが流れて。
あぁ!久々のイスラム圏!!とわくわくしながら過ごしていました。

久々の旅は3週間の予定で、しかも季節は夏だから、荷物が軽くて軽くて行きのバックパックは7.9キロでした。
荷物が軽いってなんて素晴らしいのだろう、って思います。
何かあっても走れるし、どこまででも歩けるし、自分の荷物に押しつぶされそうにならないし。



2012年10月11日木曜日

何もないということの衝撃


こちらの写真は南三陸町。街の中心だったところ。
JRの駅があって、市役所があって、商店街があったということをgoogle mapが教えてくれていて、でも実際にはそこはもう平地で、建物の基礎のみ残っていて。
確実にあったもの、ある方が自然なものが、今はぽっかりない、というその場所は、
何だか異様で、衝撃でした。

それはニューヨークのグラウンドゼロに行ったときと同じ衝撃。
周りは高いビルばかりで、その土地もそんなものがあっただろうに、ないという不自然さ。何もないという衝撃。


9月に入り、「ブログを頻繁に書く」宣言をしたのもつかの間。
急に東北に行くことに決め、仙台に行ってきました。
前回の記事での、「偶然再会できた友人」が8月に仙台にボランティアに行き、
その話を聞き、あ、私も行こう、と思ったから。時間はあるし。

ということで、仙台に行って参りました。
主にして来たことは、がれき拾いや農作業。仮設住宅にもお邪魔させてもらいました。
向こうで出会ったひととレンタカーを借りて、海沿いの街(だったところ)をぐるりとしてきたり。

1年半前、地震が起きてから、私はきちんと東北に目を向けてこなかったと思います。
今だって、きちんと何かを「見た」とか「分かった」わけではないけれど。
それでも、今回行って分かったことは、復興はほんとうにまだまだで、機械ではなくて
人間の手でするべきことがたくさんあるということと、地震はほんとうに起こったし、津波はほんとうに来た、という実感。

例えば海沿いで活動をするとき、もし地震が起きて津波が来たときのために、常に方角と避難場所を確認していたこと。
新聞を読んでいても、全国紙のトップニュースが地方紙のトップニュースではないことがしばしばあったこと。(中国の反日デモ等、比較的大きな話題であったとしても、河北新聞は震災や復興に関しての記事がトップの日がほとんどだった。)
泊まっていたところの台所は、使っていないときは必ず元栓を閉めるよう厳しく言い渡されていたこと。
暮らしの中のほんの些細な事柄が、ほんとうに地震があって、ほんとうに津波が来たということをひしひしと伝えているようでした。


ボランティアのあり方についての矛盾を感じることもあったし、
問題が大きすぎてどこをどう支援すればいいのかもよくわからないし。
自分のしていることが何かこの先の明るい方に結びついているのかも
よくわからなくなったことが多々あったけれど。

それでも、自分のしたことで「助かった」と言われたこと、
色々なものが埋まった土だったのが少しきれいな土になったこと、
毎月のように遠くからでも東北に通って復興のための活動をしているひとたちに出会えたこと、
自分のことよりも他人のことを考えて動いているひとたちがたくさんいることを知れたこと。
それだけで、行ってよかったと私は心から思います。
継続的に関わることを真剣に考えようと思います。